1年前くらいに買ったAnalogue Pocketという昔のゲームのカートリッジを刺して遊べるゲームボーイの互換機が、買ったものの人気で生産が追いついてなくて、2ヶ月前くらいにやっと届いた。届いたものの忙しくて気持ちが追いついてなかったのが、ついにそれも落ち着いたので、ようやく最近ちまちま触っている。
子どものころはゲームボーイを持っていなかった。おなじ団地に仲のよい同級生の友達がいて、その子の家に毎日のように集まっては、ファミコンにアダプターのようなものをかませてテレビでゲームボーイのゲームで遊んでいるみんなの様子を、うしろから見て楽しんでいた。いまでいうゲーム配信を観ているような気持ちだったのだろうか。とはいえ、それから20年以上経って、あのころみんながやっていたゲームを、自分がやっているのは不思議な気持ちになる。もしかすると、ほんとは僕も遊びたかったのかもしれない。
あんまり知らなかったのだけど、ゲームボーイのカセットはいまでもけっこうふつうに買える。もちろん中古だけど、Amazonでも買えるし、リサイクルショップに行けばだいたいコーナーが設けられている。なんにも予定のない休日は、電車に乗って郊外のリサイクルショップを目指す。こういう店はだいたい駅から離れた大きな通りに面していて、すこし季節を先取りした暖かい気候のなか、散歩の目的地としてもちょうどいい。
知らない駅で降りて、知らない街を歩く。時計を見ると、14時45分だった。そういえば地震があったのって、このくらいの時間だ。ポケットにいれたiPhoneからradikoを開く。TBSラジオでは特別番組をやっていて、リスナーから寄せられた12年前の震災の体験談のメールが読み上げられているところだった。radikoは再生が途切れないように設定すると遅延がひどくて、実際の放送時間から3分ほど遅れて聞こえる。だから、14時46分から3分ほど遅れて、ラジオのパーソナリティたちといっしょに、歩きながら黙祷を捧げることになる。黙祷しているあいだ、ラジオはBGMも流さずに、スタジオのなかの物音だけを静かに放送していた。
知らない街の、知らない川には、水面に春の光が反射していた。そんなことは、その街の人たちにとっては、ありふれた風景なのかもしれなかった。10年とか20年とか、自分が体験してきた時間のなかを、なんどでもいったりきたりする。ゲームボーイのカートリッジやきらきら光る川の水面が、あの日を思い起こさせるタイムマシンになる。早咲きの桜を見つけて、写真を撮る。これもまた、誰かのありふれたタイムマシンなのかもしれないと思う。