人身事故で通勤電車のダイヤが乱れている。乗りきれなかった大勢の人たちといっしょに、プラットホームで次の電車の到着を待つ。この時間は、弔いの時間だと思う。最近、事故が多すぎる。そのたびに電車は止まるけれど、2時間も経てばまた動き出している。たった2時間ほどで動き出してしまうから、その経験が繰り返されるから、命の重さは「そのくらい」になってしまってはいないだろうか。たとえば、人身事故があったら電車は2週間ほど動いてはいけないというルールになったとしたら、命の価値は上がるのだろうか。そんなことを考えるよりも、そのような判断へ至らない世界にするにはどうすればいいのかを考えるべきだ。電車の到着を待つ時間や、ぎゅうぎゅうの車内で緩衝材のように運ばれる時間は、見ず知らずのだれかの判断を、そのような判断に至った世界で生きていることを、みんなで均等に分担して受け止める時間なのだ。
月曜日、週にいちど開催される、100人ほど参加する事業部のオンラインミーティング。だれかがログインするたびに、ウェブカメラで中継された窓がひとつずつ開く。ログインした人数が増えるごとに、画面のなかでひとりが占める面積はどんどん小さくなって、顔は小さくなって、やがて画面に入りきらなくなる。個人がゆっくりと組織になっていく。そのひとつに僕も参加している。このミーティングに参加する意義のひとつは、組織の実体を再確認できる、この時間にあるのではないか。