2022-08-12

生活のなかで、ふと「あっ」て思ったけど忙しかったり忘れてしまったりで通り過ぎてしまったものが、きちんと記録されている誰かの日記や写真へ触れたとき、あなたは立ち止まったんですねって尊敬する。生きている実感ってホームランみたいに特別で大きなサイズの瞬間だけじゃなくて、そういう「あっ」が点描みたいに積み重なってぼんやりと全体をかたちづくっていると思っていて、だからもっと「あっ」を大切にするべきなんだけど、忙しかったり忘れてしまったりで通り過ぎてしまうから。

写真を撮ったあと、部屋に帰って、SDカードからパソコンへデータを移して、大きなディスプレイで撮った写真を見返していると、撮影したときには見えていなかったものが映り込んでいたことに気づく。僕は他人と目を合わせて話をすることが苦手だけど、たまに顔をまじまじと眺めたら、きみってこんな顔してたんだって思う。たぶん、想像以上にぼんやりと生きている。かなり夢のなかを歩いている。

taizoooさんのScrapboxを読んでいたら、僕の8月3日の日記を取り上げて、文の単位で分けて、どれがいちばん刺さるかを探したプロセス?を書いてくれていた。びっくりしたけど、うれしかった。ありがとうございました。

インターネットにはパンチラインしかない文章を書くことが出来る人がいる

アンサーとして、taizoooさんのScrapboxから引用を仕返したい。taizoooさんのTumblrは、他人の言葉のなかからパンチラインを引用して積み重ねることで、鏡のようにそれをパンチラインだと判断したtaizoooさん自身のすがたをかたちづくっている。しかし、言葉なんか、誰かの口から出た言葉を水のように飲み込んでから、自分の言葉としてまた吐き出すものだし、そのことを自覚しているか、していないかの違いでしかないようにも思う。かっこいい歌や詩は覚えておいて、たとえば楽しかった夜の帰り道とかに、いつでも唱えられるようにしている人はたくさんいる、たぶん。そんな言葉は、もはや、その人のものだ。

気持ちを言葉にするとき、どうしてもディテールは失われる。かたちが似た別のなにかへ置き換えるために輪郭が弱まって、その言葉を読む人が自分と重ねる余地がうまれる。異なっているはずのものが、なんだか重なって見えてしまう。そういう言葉を、僕は詩だと思う。だから、詩を書くことは、きわめて具体的な言葉を扱いながら、どうすれば輪郭を溶かして抽象化させていけるのかという技術のように考える。遠くにあるものを近くへ引き寄せて、言葉のピントを外していく。そうやって、誰かとつながるための余白を空けておくのだ。

どうすれば詩を書けるようになるのか。パンチラインとは、情報を圧縮し、語感も大切にした、かなり輪郭が失われた言葉だ。だからこそ、ファイルサイズも軽くて流通しやすい。taizoooさんはカロリーが高いところと言っていたけれど、そのカロリーの高さとは情報量の多さを指しているのではなく、圧縮から解凍するためのデコードに労力を使うからではないかと思う。そして、そのデコードの際に失われた情報量を、読む人がそれぞれ補完している。だから、パンチラインは、あなたの言葉だと思うんです。

冒頭に戻ると、夢のなかを歩いている僕は「あっ」を感知するセンサーをもっと敏感にしたくて、写真を撮ったり、こうやって日記を書いている。この日記のURLをstudiesとしているのも、記録というよりは、そういう練習だと思ってるし、研究だと思うからだ。