2022-07-28

渋谷で働きはじめて10年経つが、いまだに道玄坂がどの坂なのかよくわかっていない。それよりも、ユニクロのある坂とか、丸亀製麺の前の坂とか、コンロウっていうおいしいタイ料理屋がある交差点のところの坂、とか言ってもらったほうがいい。というような道玄坂と、車がビュンビュン通ってる首都高速との、ちょうどあいだくらいにあるのが「おがわ」という店で、雑居ビルの1階の奥の、すれちがえないくらいに細い階段を降りていった先の、地下1階のつきあたりにある。そんな一見さんは到底たどりつけないようなひっそりとした立地だから、中に入ると車の音もしないし、人の声もしないし、あるのは小さな音で鳴っているAMラジオのNHKのニュースと、お母さんが鍋に火を点けたり、食器を洗ったりする音と、相席している知らない人の食事の音だけだ。

「おがわ」は、お母さんと呼ばれている年配の女性がひとりで切り盛りしている小さな店で、カウンターは6人も座ればいっぱいになる。ランチ営業の「おがわ」にはメニューがなく(実はあるという噂も聞いたことがあるが、頼んでいる人は見たことがない)、こんにちはと挨拶したらなにも言わなくても茶碗いっぱいの白米(ガスで炊いているので、めちゃくちゃおいしい)と味噌汁(昆布がしっかりしていて食べごたえがある)、やがて日替わりの主菜(きょうはトマトで煮込んだ夏野菜だった)が出てきて、カウンターの前にある副菜(だし巻き玉子、焼いたししゃも、切り干し大根など)はビュッフェ形式で好きに取って食べていいというシステムになっている。お母さんに勧められるがままに白米をおかわりして大満足で食べ終えると、最後にお手製の紅茶の寒天が出てくる。お母さんと顔なじみの常連客は、みんなひとりで黙々と食事をしていて、ごはんを食べながらスマホを見ている人はいない。帰りに1000円札を渡して、みんなお母さんとささやかな世間話をしてから、ごちそうさまでしたとお礼を言って、ひとりずつ帰っていく。

「おがわ」に行ったのは、相当にひさしぶりで、たぶん3年ぶりとかで、正直まだあるのかなとか不安だったのだけど、しかし、店も、お母さんも、まったくなにも変わっていなかった。店の中心にたたずむお母さんを取り囲む半円のカウンター席は、反対側に座って黙々と食事をしている知らない人とも食卓を共にしているようで、そんな場所で切り干し大根を食べていると、この店は、じつはタイムマシンで、ここだけコロナ禍の前で時間が止まっているような気さえした。