2022-08-26

つい3ヶ月前までは野球なんか1秒も観てなかったわけで、自分のかたちなんてかんたんにコロコロ変わるんだろうなと思う。変わりつづけることを受け入れる。僕も、他人のことも。関係性も、役割も、責任も、性別も、変わりつづける瞬間のスナップショットにすぎない。楽しい気持ちになったり、愛しい気持ちになったり、おそらくあっというまに終わってしまう人生を、それぞれにとっていちばん良い過ごし方ができればいい。始まるときはいつも終わることを考えてしまうけど、いちどでも経験した良い時間のことは、ずっとつづいていくように思う。そういう時間は、積み重なって、別の時間へつながっていくから。

給料を査定してもらうために評価資料を書かないといけなくて、この半期に終えたタスクを見返しているのだけど、そのときに必要になったことを打ち返しているというか、数ばかりこなして、タスクどうしの関連を見出したり、理想の未来を考えられなくなっていることがわかる。2年後の自分はどうなっていたいのか?とか、必死こいてやってる手元の作業がめぐりめぐって社会へどんなふうにすこしでも良い影響を与えられるのか?を答えられないことに課題を感じてる。とにかく言葉にする力が弱い。

2022-08-24

唐揚げ用に切ってある鶏もも肉を入れたジップロックに酒と小麦粉とマキシマムを目分量で加えたあと、よく揉みこんだら冷蔵庫にしまって、風呂に入る。風呂からあがったら、それをフライパンに多めにひいたごま油で表面がカリカリになるくらい揚げるように焼いて、黄色いパプリカとズッキーニ、ズッキーニが売ってなかったら茄子をひとくちサイズに切って入れて、だいたい火が通った感じになったらオイスターソースと酒を回しがけ、砂糖と醤油をすこし入れて煮詰める。それをちびちび食べつつ、ノンアルコールビールを飲みながら、テレビを観てる。録画したきのうの深夜番組。僕が眠っているあいだに放送されていた笑い声。

先日のフジロックのYouTubeの配信を観てから、クラムボンの「タイムライン」って曲をよく聴き直してる。ちょうどライブがはじまるのが午後5時からだったのにあわせて、会場では時報の音が鳴っていたのを思い出す。この曲の歌詞には、心の底から共感する。

タイムライン

タイムライン

  • クラムボン
  • J-Pop
  • provided courtesy of iTunes

2022-08-23

会社へ行く前に髪を切ってもらった。シングルマザーの美容師さんの子どもがUSJへ泊まりがけで遊びに行くので、3日間ほどひとりで過ごせる時間ができたらしい。なにをするんですかと尋ねると、ほんとうはひとりでいたかったのに、あまりにも自由な時間がうれしくて友達に自慢して回ったら、次々と食事だの旅行だの誘われて断れずに苦しいとのことだった。人気者の苦悩。

帰り道に本屋へ寄って、滝口悠生の「死んでいない者」と「茄子の輝き」という小説を買う。まだ読んでないけど、いいタイトルだなと思う。

夕飯を買うついでに、セブンイレブンのネットプリントの機能を使って配られている、もっちょさん、という方が発行している「もたより」というフリーペーパーを印刷する。もっちょさんの顔も声も知らないのだけど、インターネット越しに書かれた、日記のような手紙のような、不思議な手触りがする手書きの文章から、人柄を想像しながら読んだりしておもしろい。自分にとってはあまりにも日常的な風景であるコンビニエンスストアの隅で、Twitterに書かれた秘密の8桁の数字をコピー機のタッチパネルに入力していると、これが日常へエラーを引き起こす裏コマンドのようにも思えてくる。その出力が、A4サイズの白黒の紙が1枚だけということも含めて。

2022-08-21

じゃあまたねバイバイ、と手を振りながら電車を降りて、それから帰り道をひとりで歩きながら、右手の感触を思い出していた。触れたいと思って、手を繋いでいい?と聞いたら、いいよと応えてくれたので、手を繋いだのだ。すこし強く握ると、握り返される力を感じた。手を伸ばせば触れられる距離に好きな人がいて、触れたいと思って、その気持ちを受け入れてもらえたことが、うれしかった。ずっと、そうしたかったから。仕事をする右手も、詩を書く右手も、バイバイと手を振る右手も、ぜんぶ僕の右手で、僕がずっとそうしたかった右手で、その気持ちを伝えて握り返してもらった右手だから。

2022-08-16

横浜DeNAベイスターズ、本拠地12連勝で球団新記録。選手たちが、みんなひとりずつ、ほんとうにかっこいい。野球を見はじめたときは勝ちとか負けとかそんなに大切なのかなと思っていたけど、勝ちにむかって真剣になっている選手のすがたや、おなじ気持ちを共有する喜びから、勝つことの価値を感じるし、野球を楽しんでいる彼らを見たくて応援したくなる。

「やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)」を読む。おもしろそうでずいぶん前に買ったものの、読まないまま本棚に差しっぱなしだった本。スイッチが入ってどんどん読める。大学の同級生が、本は時限爆弾だから、買ってすぐに読まなくてもいいんだよと話していたのを、いつも思い出しては勇気づけられる。アイオワ日記は、さまざまな国から30人ほどの作家たちが集まったアイオワ大学での3ヶ月におよぶ滞在プログラムに、日本からひとりで参加した滝口悠生さんによる日記。言葉の壁を越えられずに、わけもわからないことばかりが起きるなかで、かすかな理解や共感の糸をたぐっていく。日記のなかの滝口さんはひたすらに冷静だけど、それは冷たいというわけではなく、目の前のできごとを真摯に見つめているまなざしがあって、主語の大きな興奮した言葉ではなく、こういうサイズの手触りが感じられる言葉を使いながら穏やかに暮らせたらいいだろうなと思う。

葉山で買ったアレック・ソス展の図録がA6サイズの小さな本で、このくらいのかわいい本を作ってみたいなと思って、ずっと気になっていたミシン糸で中綴じしてくれる大阪の印刷所に紙のサンプルや色の見本を注文した。僕はできないこともたくさんあるけど、やりたいと思ったことなら、だいたいできてしまう。そういう小さな自信を、ちょっとだけ思い出した。

2022-08-14

眠ってばかりの夏休みだったけど、ぼーっと過ごすことができて、だいぶ休めたなあという感じがあって、よかったです。これから先、やりがいがあって楽しみなことがいくつも待っているので、がんばるぞ。穏やかな気持ちです。ありがとうございました。

同人誌へ詩を寄稿するにあたって自己紹介を150字程度で書く必要があって、すごくむずかしい。これまで肩書きを求められたときはいつも「Webデザイナー」とか適当に答えてしまっていたのだけど、Webデザインが詩を書くことに関係しているわけでもないし、というかWebデザイナーじゃないし、ましてや詩人なんて名乗れないし… って思うと、平日の日中を会社で働きながら昼休みとか週末に詩を書いたり、自作の詩を声に出して読んでいる人、ということを丸めて「会社員」になってしまう。これは覚悟の問題で、そうやって名乗ってしまったら会社員になるのかもしれないし、名乗りさえすれば詩人にもなれるのかもしれない。ここまで書いておいて、肩書きなんて自称するものではなく過去の実績だけが自己紹介してくれるのだろうなと思ったので、もっと戦略的にやっていこう。

2022-08-13

眠くて眠くて、眠ったり食べたり眠ったり、テレビを観ながら眠ったりしていた。よく眠ってすっきりした。ベッドに横たわって、高橋源一郎の「ぼくらの戦争なんだぜ」を読む。戦時下に使われた教科書、戦時下に書かれた詩、戦争を描いた小説がたくさん引用されている。本のうち半分くらいは引用なのではないかと思うくらい。DJが曲をつなぐみたいに、引用に次ぐ引用によって、べつべつに書かれて読まれた文章がつながって、点がやがて面になっていく。おもしろかった。そして、戦争はある瞬間から突然はじまるようなものではなく、もうゆっくりはじまっているのかもしれなくて、恐ろしくなる。

8月5日の夜に、広島から放送されていた高橋源一郎のラジオも聴いた(もう配信が終了しているのでリンクを貼れない)。ゲストが古市憲寿で、著書のなかで「僕たちは、戦争を知らなくていい」というすごい結論へ至っていて、それはよく知らない「戦争」ではなく知っている「平和」を根拠にするべきなのではないかという考えからなのだけど、そういう人が被爆体験の語り部の人と会って話す、という内容。このトークもすごくおもしろかったのだけど、番組の最後の高橋源一郎の言葉におおっと心を動かされた。

つまり、経験者が語れるってことになると、経験してない人は語る権利がなくなっちゃうんですよ。これが、もしかしたら戦後の大きい分断ね。経験した人が偉くて、経験してない人は黙ってろと。なにかを分離するものは、根本的によくないよね。それはまだ、そういうものははじまってないのかなと思って、そういう分断を超える語りみたいなものを、ぜひ古市さんもやっていただけると、うれしいなという。

8月15日の夜にも太宰治と戦時下の詩人の作品を取り上げた放送があるようなので、楽しみ。

最近は「(((さらうんど)))」って名前の人たちの新しいアルバムがよかったのと、いま夏休みってことで、ザ・なつやすみバンドの曲を聴いてる。活動休止しちゃったの残念だよなあと、たまに思い出す好きなバンド。

2022-08-12

生活のなかで、ふと「あっ」て思ったけど忙しかったり忘れてしまったりで通り過ぎてしまったものが、きちんと記録されている誰かの日記や写真へ触れたとき、あなたは立ち止まったんですねって尊敬する。生きている実感ってホームランみたいに特別で大きなサイズの瞬間だけじゃなくて、そういう「あっ」が点描みたいに積み重なってぼんやりと全体をかたちづくっていると思っていて、だからもっと「あっ」を大切にするべきなんだけど、忙しかったり忘れてしまったりで通り過ぎてしまうから。

写真を撮ったあと、部屋に帰って、SDカードからパソコンへデータを移して、大きなディスプレイで撮った写真を見返していると、撮影したときには見えていなかったものが映り込んでいたことに気づく。僕は他人と目を合わせて話をすることが苦手だけど、たまに顔をまじまじと眺めたら、きみってこんな顔してたんだって思う。たぶん、想像以上にぼんやりと生きている。かなり夢のなかを歩いている。

taizoooさんのScrapboxを読んでいたら、僕の8月3日の日記を取り上げて、文の単位で分けて、どれがいちばん刺さるかを探したプロセス?を書いてくれていた。びっくりしたけど、うれしかった。ありがとうございました。

インターネットにはパンチラインしかない文章を書くことが出来る人がいる

アンサーとして、taizoooさんのScrapboxから引用を仕返したい。taizoooさんのTumblrは、他人の言葉のなかからパンチラインを引用して積み重ねることで、鏡のようにそれをパンチラインだと判断したtaizoooさん自身のすがたをかたちづくっている。しかし、言葉なんか、誰かの口から出た言葉を水のように飲み込んでから、自分の言葉としてまた吐き出すものだし、そのことを自覚しているか、していないかの違いでしかないようにも思う。かっこいい歌や詩は覚えておいて、たとえば楽しかった夜の帰り道とかに、いつでも唱えられるようにしている人はたくさんいる、たぶん。そんな言葉は、もはや、その人のものだ。

気持ちを言葉にするとき、どうしてもディテールは失われる。かたちが似た別のなにかへ置き換えるために輪郭が弱まって、その言葉を読む人が自分と重ねる余地がうまれる。異なっているはずのものが、なんだか重なって見えてしまう。そういう言葉を、僕は詩だと思う。だから、詩を書くことは、きわめて具体的な言葉を扱いながら、どうすれば輪郭を溶かして抽象化させていけるのかという技術のように考える。遠くにあるものを近くへ引き寄せて、言葉のピントを外していく。そうやって、誰かとつながるための余白を空けておくのだ。

どうすれば詩を書けるようになるのか。パンチラインとは、情報を圧縮し、語感も大切にした、かなり輪郭が失われた言葉だ。だからこそ、ファイルサイズも軽くて流通しやすい。taizoooさんはカロリーが高いところと言っていたけれど、そのカロリーの高さとは情報量の多さを指しているのではなく、圧縮から解凍するためのデコードに労力を使うからではないかと思う。そして、そのデコードの際に失われた情報量を、読む人がそれぞれ補完している。だから、パンチラインは、あなたの言葉だと思うんです。

冒頭に戻ると、夢のなかを歩いている僕は「あっ」を感知するセンサーをもっと敏感にしたくて、写真を撮ったり、こうやって日記を書いている。この日記のURLをstudiesとしているのも、記録というよりは、そういう練習だと思ってるし、研究だと思うからだ。

2022-08-11

天気予報を眺めてると、もう残暑って言ってる。残っていうか、気分も気温も夏本番まっさかりって感じだけど、立秋を過ぎたからなのかな。週末は台風がくるので、いまのうちに出歩いておく。きょうは初台のライアン・ガンダー展へ。展示を観るときは、あんまり手元のハンドアウトを見たりしないでガンガン進んで、いったん最後まで行ってから最初の展示室へ戻って、2周目で気になった作品をじっくり観るという見方をやっているのだけど、コンセプチュアルアートでそれをやると、2周目を回りながら読む作家の解説文は答え合わせ感がすごくておもしろかった。最後の1時間ある映像作品、セルフィーからはじまって、承認欲求、果てはテクノロジーに浸食されていく生の実感まで、ライアン・ガンダーが当事者へ会いに行きながらわたしたちのすがたを暴いていくドキュメンタリー番組がメチャクチャおもしろくて、ぜんぶ観ちゃった。上の階の収蔵作品の展示もライアン・ガンダーが選んでいて、向かい合った壁面に、作品の展示と、そのレイアウトそっくりそのまま同じサイズでキャプションを貼るっていう、かなりかっこいい演出が効いていて、これは今回だけでなくふだんからいつも思っているのだけど、Illustratorで配置して中央揃えしたんかってくらい精巧なインスタレーションをするオペラシティアートギャラリーの設営の技術が光っていた。

ポイントカードおつくりしますかと尋ねられたので、お願いしますと答えると、お誕生日の月と結婚記念日の月はポイント2倍ですが8月はどちらでもないですか?と言われて、おそらく花屋でしか聞くことのない台詞だ!と思って興奮した。正直に、花を買うのが初めてでしてと打ち明けると、親切に水を替えるタイミングや手入れの方法を教えてくれて、帰り際に植物を元気にする謎の粉をもらった。自転車のかごに、ひまわりのブーケを乗せながらペダルを漕ぐ。花を買うとか、部屋に飾るって、楽しいね。

2022-08-10

逗子駅から海岸沿いを走るバスへ乗り込むと、海水浴客だと思われる人たちでいっぱいだった。雲ひとつなく晴れた夏の空は、Photoshopで切り抜きやすそうな青色で。初めて行った神奈川県立近代美術館の葉山館と呼ばれる平屋の建物は、展示室からも、併設するレストランからも、休憩のベンチからも、いろんな場所から海が見える。

アレック・ソスの個展は4つの部屋で構成されていて、最後の部屋が1時間の映画の上映になっている。着いたらもう上映がはじまる時間だったので、展示された写真たちもそこそこに映画を観た。内容は、アレック・ソスの撮影現場に密着したドキュメンタリー。ふつうの乗用車で旅をして、なんらかの事情により社会から出て行かざるを得なかった人たちにどんどん出会い、じゃんじゃん話しかけて、ポートレートや暮らしている部屋の様子を大判カメラで写真へ収めていく。恣意的な編集にBGMもしっかりついていて、なんだかクレイジージャーニーくらいやりすぎな演出も感じつつ、旅の合間にアレック・ソスが話していた、偶然に身を委ねて「運ばれていく」のを大切にしたいという言葉に共感した。自分の意思でどこかへ行くのではなく、「運ばれていく」という感覚は、すごくよくわかる。展示も、おもしろかった。とくに海が見える部屋での展示は、プリントを壁にマグネットで留めるくらいの印象の軽さもあって、なんだかTumblrのダッシュボードを眺めているみたいだった。

併設されたレストランも景色がよく、ひとりで食べてるやつなんかいなくて、肩身が狭かった。しかし周辺に休憩できる店があるかどうかも知らないし、こっちもはるばる小旅行気分で来てるので、開き直って素朴な味のハンバーガーを頬張った。それでも、クーラーの効いた涼しい室内で、アイスコーヒーを飲みながら遠くに寄せては返す波をぼんやりと眺めているだけで、かなりよかった。

冬には内藤礼の展示もあるみたいなので、また行きたい。そのときには、窓から冬の海が見えると思うと楽しみだ。