鹿スタディーズ

越谷市科学技術体験センター ミラクル友の会 会員

11/8

会社の地下の駐車場で火災があって、警報音が鳴り響くなかみんなで慌てて外へ出ると、ビルのなかにいた人たち(他の会社のぜんぜん知らない人たちとか、オフィスのほかにホテルもあるので、料理中の白衣を着た人たちとか、吹奏楽の楽器を持った学生たちとか)が全員集合していて、不謹慎ながらおもしろかった。

いちども顔を合わせたことがないけど、おなじ建物でおなじ時間を過ごす僕たちが、ある事件をきっかけに、すべての作業を中断させられて出会っている。ばらばらな僕たちにとって、いま誰かと共有できる物語なんて、地震が起こって「ゆれた」ってツイートするとか、会社の地下で起こる火災ぐらいなのかもしれない。

非常階段を降りながら、田中功起のビデオを思い出してた。この階段を降りるだけのビデオがなんでこんなにおもしろいのか、ちょっとわかった気がした…。

11/7

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昼ごはん、東急の地下で買ってきたおしゃれなサンドイッチ、おいしいけど、かつて大好きだったなにかの味に似てる… と思って、よく思い出したらピザまんだった。

トンカツ屋で隣の席に座ったお姉さんが、テーブルに置いてあるチリソースの瓶を持って凝視してたので、ドレッシングですよ、と教えたら小さな声で「テンキュー」と言われた。

11/6

はてなブログの Pro プランを契約してからちょうど 1 年… で、静かに契約が切れて、ブログが見えなくなってた。 CNAME の設定が消えちゃうんだなあ。なんとなくもう 1 年契約したけど、せっかくお金を払ってるし、ちゃんと日記を書こうという気分になった。インターネットに自分の場所を維持するためにお金を払う。ウェブサービスはたいてい無料でも使えるけど、もちろん有料で使うこともできる。どんなふうに生きるのかはわたしたちに委ねられている。部屋を借りて家賃を払う、そのお金はただ部屋に住むことの価値との交換ではなく、わたしたちがこの街に住みたい意思の表明でもあるはずなんだ。僕は、はてなブログが好きだ。

日ポン語ラップの美ー子ちゃん、ぜんぜんラップを聴かない僕でもおもしろい。紹介されているそのものに興味がなくても、熱狂している人の言葉がおもしろいのだ。

10/18

価値は目に見えない。目に見えないものを取り扱うには、インターフェースがいる。お金は、価値を持ち運べるようにしたインターフェースだ。フォロワー数も、価値を数値へ変換できるようにしたインターフェースのひとつ。お金もフォロワー数も、価値そのものではなくインターフェースでしかないので、インターフェースどうしを交換しても価値は手に入らないのではないかと思う。肩たたき券を何枚もっていても、肩たたきという愛が手に入らないように。

7/18

「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、 そこ、きっと──────」を観た。すばらしかった。

演じることは、人間のからだを使うから、きわめて具体的だ。かたちがあるからだ。そのかたちは、観る人も持つ、誰もが持つ、同じからだが用いられている。同じかたちを持っているから、想像できる。演じる人の痛みが、観る人の痛みになる。演じることが、観る人を演じることになる。きわめて具体的に、抽象化されたわたしたちの痛みが演じられる。

7/10

マームとジプシーが結成 10 周年を記念して、全国 6 都市をまわって過去の 4 作品をもういっかい上演している。まず埼玉公演があって、ぼくは 4 作品セット券を買ったので、毎週みることになった。それで、きょうが 1 日目の「クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ」。

マームとジプシーの作品は DVD などで映像が販売されていない。 WOWOW とかで放送されていたこともあるらしいけど、もういちど観たいと思ったら観にいくしかない。観にいくといっても、毎回ちょっとずつアップデートされているので、同じものはもう観ることができない。きょうの「クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ」は、もともとはそれぞれ「クラゲノココロ」「モモノパノラマ」「ヒダリメノヒダ」というタイトルで公演されていたものを混ぜて 1 本にした… という作品で、このリミックスした作品の公演自体も 2 回目で、僕はそれぞれの公演も観たし、この公演も 2 回目だ。

マームとジプシーの演劇には、リフレインと呼ばれる、なんども同じ台詞を繰り返したり同じシーンを繰り返す演出がある。ふたりが話しているシーンが終わったら、お互いの場所を入れ替えてもういっかいやってみる。映画のカメラはカメラが動くことがカメラワークだけど、演劇で席に座ってじっとしている観客にとっては、演じる人たちの何度も繰り返す動きがカメラワークになる。そのたくさんの視点によって、きわめて具体的な人間の身体を使いながら、抽象的に場が描かれていく。

マームとジプシーについて、そんな演出のおもしろさばかりをまずは話してしまいがちだけど、きょう観て思ったのは、やっぱり役者の人たちが魅力的だった。たぶん、演じるということは、与えられた役に自分を消してなりきることではなく、役者がどれだけ自分の個性を消さずにその場に立っていられるのか、試されているのではないか。何回も観ているので、次になにが起こるか知っている。それでも何度も心を揺さぶられるのは、自分が座っている席と地面がつづいたすこし先の舞台で、同じ身体をもった人間が、わたしとわたしではないものをいったりきたりしながら立っている、その繰り返しの運動を観ているからだ。

セブンイレブンの店頭で義援金を受け付けているのを見て、きのうの九州の被害がひどかったことを知った。雨が降っていることしか知らなかった。帰ってテレビをつけて、セブンイレブンのカツ丼を食べる。雨はいまも降りつづけていると、テレビが言っている。

手がかり

言葉は、言葉だけでは手がかりがないから、それに近い言葉へ言い換えたり、言葉が指す意味を定義したりして、そうすることがもともとの言葉へどれだけ近づいたのか、または遠くなったのか、そういう差分を手がかりにすることがある。言葉のイメージは液体で、たしかに存在するけど形はよくわからない。液体を A の容器から B の容器へ移し替えるみたいな作業のことが、詩を書くみたいなことなんじゃないかと思ってる。意味を伝える機能として書かれない言葉。差分を手がかりに世界へ近づいていくための言葉。

おもしろい

それが知られていないから広まっていないのか、知られたうえでおもしろくないから広まっていないのかは、見極めたほうがいい。知られていないなら広めるほうへ、おもしろくないならおもしろくするほうへ力を使ったほうがいいのに、いつも、おもしろくないのに広めることばかりやっている。おもしろさとは、情報の多さだ。それは言葉の多さではなく、ときには言葉を減らすことが情報を増やすこともあるだろう。この言葉は、いったい、誰が、誰へ、語りかけているのか?そのことが、これを、どれだけ、豊かにしているのか?

カバー

本屋で本を買う。カバーをおつけしますか、と聞かれる。もうすこしこの人といっしょにいたいなと思ったら、お願いしますと言う。家に帰ったら、カバーは外して捨ててしまう。