鹿スタディーズ

越谷市科学技術体験センター ミラクル友の会 会員

マームとジプシー 2日目

「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、 そこ、きっと──────」を観た。すばらしかった。

演じることは、人間のからだを使うから、きわめて具体的だ。かたちがあるからだ。そのかたちは、観る人も持つ、誰もが持つ、同じからだが用いられている。同じかたちを持っているから、想像できる。演じる人の痛みが、観る人の痛みになる。演じることが、観る人を演じることになる。きわめて具体的に、抽象化されたわたしたちの痛みが演じられる。

マームとジプシー 1日目

マームとジプシーが結成 10 周年を記念して、全国 6 都市をまわって過去の 4 作品をもういっかい上演している。まず埼玉公演があって、ぼくは 4 作品セット券を買ったので、毎週みることになった。それで、きょうが 1 日目の「クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ」。

マームとジプシーの作品は DVD などで映像が販売されていない。 WOWOW とかで放送されていたこともあるらしいけど、もういちど観たいと思ったら観にいくしかない。観にいくといっても、毎回ちょっとずつアップデートされているので、同じものはもう観ることができない。きょうの「クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ」は、もともとはそれぞれ「クラゲノココロ」「モモノパノラマ」「ヒダリメノヒダ」というタイトルで公演されていたものを混ぜて 1 本にした… という作品で、このリミックスした作品の公演自体も 2 回目で、僕はそれぞれの公演も観たし、この公演も 2 回目だ。

マームとジプシーの演劇には、リフレインと呼ばれる、なんども同じ台詞を繰り返したり同じシーンを繰り返す演出がある。ふたりが話しているシーンが終わったら、お互いの場所を入れ替えてもういっかいやってみる。映画のカメラはカメラが動くことがカメラワークだけど、演劇で席に座ってじっとしている観客にとっては、演じる人たちの何度も繰り返す動きがカメラワークになる。そのたくさんの視点によって、きわめて具体的な人間の身体を使いながら、抽象的に場が描かれていく。

マームとジプシーについて、そんな演出のおもしろさばかりをまずは話してしまいがちだけど、きょう観て思ったのは、やっぱり役者の人たちが魅力的だった。たぶん、演じるということは、与えられた役に自分を消してなりきることではなく、役者がどれだけ自分の個性を消さずにその場に立っていられるのか、試されているのではないか。何回も観ているので、次になにが起こるか知っている。それでも何度も心を揺さぶられるのは、自分が座っている席と地面がつづいたすこし先の舞台で、同じ身体をもった人間が、わたしとわたしではないものをいったりきたりしながら立っている、その繰り返しの運動を観ているからだ。

セブンイレブンの店頭で義援金を受け付けているのを見て、きのうの九州の被害がひどかったことを知った。雨が降っていることしか知らなかった。帰ってテレビをつけて、セブンイレブンのカツ丼を食べる。雨はいまも降りつづけていると、テレビが言っている。

手がかり

言葉は、言葉だけでは手がかりがないから、それに近い言葉へ言い換えたり、言葉が指す意味を定義したりして、そうすることがもともとの言葉へどれだけ近づいたのか、または遠くなったのか、そういう差分を手がかりにすることがある。言葉のイメージは液体で、たしかに存在するけど形はよくわからない。液体を A の容器から B の容器へ移し替えるみたいな作業のことが、詩を書くみたいなことなんじゃないかと思ってる。意味を伝える機能として書かれない言葉。差分を手がかりに世界へ近づいていくための言葉。

おもしろい

それが知られていないから広まっていないのか、知られたうえでおもしろくないから広まっていないのかは、見極めたほうがいい。知られていないなら広めるほうへ、おもしろくないならおもしろくするほうへ力を使ったほうがいいのに、いつも、おもしろくないのに広めることばかりやっている。おもしろさとは、情報の多さだ。それは言葉の多さではなく、ときには言葉を減らすことが情報を増やすこともあるだろう。この言葉は、いったい、誰が、誰へ、語りかけているのか?そのことが、これを、どれだけ、豊かにしているのか?

カバー

本屋で本を買う。カバーをおつけしますか、と聞かれる。もうすこしこの人といっしょにいたいなと思ったら、お願いしますと言う。家に帰ったら、カバーは外して捨ててしまう。

6/1

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

この本、おもしろすぎる。というか、この社会が、いま、おもしろすぎるんだ。これまであたりまえに受け入れてきたフルスタックな慣習が見つめなおされて、本質的な機能だけが残っていく。身ぐるみが剥がされていく。それでもそれを音楽といえるのか、お金といえるのか、家族といえるのか、問われはじめている。でも、なにをもって家族といえるのか、なんてことを考えているほうが、なんとなく家族をやっているより豊かなんじゃないかな?

ビットコインを 1 万円ぶん買ってみた。自分が換金したお金の価値が、十円、百円、ときには千円の単位で、上がったり下がったりを繰り返している。それはボタンを押す数秒間のあいだで変わってしまうような細かな波で、だからボタンを押す自分の意思なんて関係ないし、物の価値なんてほんとうにもろい信用でできているんだなと思う。駅前のスーパーとコンビニで牛乳の値段が 10 円ちがうとか考えるのがどうでもよくなる。かつてインターネットがやっていたことは、これまで当然だったなにかを壊すことであって、そこにインターネットの価値があったのかもしれない。

新卒採用

今年から、会社の新卒採用の書類選考と一次面接を担当させてもらっていて、すごくおもしろい… って言っていいのかわからないけど、いろんなことを考えさせられる。通過にしろ不通過にしろ、判断することの理由をきちんと言葉にすることを求められる。ほんとうは求められていないのかもしれないが、この言葉が本人に届いてもいいように僕は書くようにしている。そうやって言葉を書きつづけていると、いま会社に必要だと自分が考える人材はいったいどういう人なのか説明できるようになってくる。すべては自分を棚においた発言だけど、自分がこうあるべきだと考えるすがたを話している、その言葉が自分の口から出てきて驚くことがある。

5/16

文章は、その文章を読む人にむかって書かれる。日記は、まぎれもなく自分のためにあって(その日記を公開しているのはなんでなのかってなるけど…)、だから日記を書くことは、自分にむかって話しかけるようなことだと思う。というか、そういうときって、まるで幽体離脱したみたいに、他人のように自分を扱っている。日記を書くということは、自分からいったん外へ出ることのようにも思える。

スマートフォンのディスプレイの光が顔を照らす。僕が住んでる街はすごく静かで、アパートの部屋のロフトに上がると、さらに静かだ。冷蔵庫の音しかしない。画面をなぞる指が、文字を打ち込んでいくのを見ている。

5/6

姉の結婚式があった。バージンロードを歩く父と姉の姿を見ていると、こみあげるものがあった。結婚式には、姉と新郎の友達も、職場の同僚も、親戚も、たくさんの人が来ていた。父がギターを弾くのが趣味なので余興で演奏していたのだけど、緊張からか間違えまくっていて、ぼくと母は下を向いてこらえていた。でも、とてもよかったと思う。

ぼくは、結婚することと幸せになることは同じではないと考える。でも、結婚するって、いいなあって思った。結婚しなくても幸せになれるけど、結婚して幸せになれることもまた事実なんだ。姉が幸せそうで、うれしかった。そして、そんな自分の考え方がちょっと幼すぎるように思えて、恥ずかしくなった。

ぼくの席に置かれた姉の手作りの名札には、 MY BEST BROTHER と書いてあった。